Glimpses of Unfamiliar Japan Vol. 2
1. Of a Dancing-Girl
小泉八雲 落合貞三郎他訳 「知られぬ日本の面影」 第二十二章 舞妓について
今も猶、さうであるが、昔は日本の若い畫家は、全國各地を徒歩で旅行する風があつた。それは名所を見たり、寫したり、且つまた多くは非常に風致に富める地にある寺院に藏せらるゝ名畫宍佳什を研究するためであつた。主もにかゝる遍歷の結果として、今日非常に珍重せられるゝかの風景畫や、風俗畫の美麗な書籍が出來たのだ。それによると、日本人のみが日本の風景を描き得ることを最もよく示してゐる。讀者が日本畫家の日本の自然を解釋する技巧に昵じんでくると、同じ方面に於ける外國人の試作は、妙に平凡無氣力と見えてくるだらう。外國の畫家は、彼の見るものの寫實的映像を與へる。しかしそれ以上の何をも與へない。日本の畫家は彼の感じたもの――季節の氣分、正しくその時間、その場所の精確なる感じを與へる。彼の作品は西洋の藝術には滅多にない暗示力の特質を有する。西洋の畫家は緻密なる細部を現はし、彼の惹き起こす想像力を滿足させる。が、東洋の彼の同胞畫家は、細部を抑へてしまうか、または理想化する――遠いものを霧に浸したり、風景に雲を纏はせたりして、彼の經驗を單に奇異なもの、美しいもののみが、其感覺と共に殘つてゐる記憶となすのである。彼は想像力に超越し、それを興奮させ、それをしてただ瞥見の中に認めた美を、慕ひに慕はしめるまゝにしておく。それにも係らず彼はかゝる瞥見に於ても、一種の殆ど魔法と思はるゝやうな方式で、ある時の感じ、ある場所の感じを表現することが出來る。彼はさつぱりした現實よりは、寧ろ回想と感覺の畫家だ。して、こゝに彼の驚くべき力の祕訣が存してゐる――この力は彼が感興を得た場面を未だ嘗て見ざる人では、味到し得られない。就中彼は非個人的だ。彼の描ける人物の形は、すべての個人性を缺いてゐる。しかもある階級の特徴を示す類型として無比の價値を有する――百姓の子供らしい好奇心、少女の羞恥、女郎の媚態、武士の自己意識、子供の可笑しげに、落付いた可愛らしさ、老人の諦め悟つた温和。放行と觀察によつてこの藝術は、發達させられた。それは決して畫房の所産ではなかつた。
餘程のこと、繪書修業の一靑年が、京都から江戸へ山を越えて、徒歩で旅をしてゐた。當時は道路の數は乏しく、また惡路であつたので、旅行は、今と比ぶれば非常に困難で『可愛い子には旅をさせ』、といふ諺も行はれてゐた。しかし土地は今とは異らなかつた。今と同じやうな杉や松の森、竹藪、草葺の屋根を有する尖つた村落があつた。泥濘の中に腰を曲げた百姓の大きな黃色の藁笠が、段々をなして相連る稻田の中に點綴せる光景も同じであつた。路傍からは今と同じ地藏の像が、今と同じ寺へと辿つて行く巡禮者に笑顏を向けてゐた。して、今と同じく、夏の日には、すべての淺い川の中には褐色の裸の子供が笑つてゐて、すべての川は太陽に向つて笑つてゐた。
が、繪畫修業の靑年は、「可愛い子」でも何でもなかつた。彼は從來幾多の旅をして、粗食と荒々しい宿に馴れ、あらゆる難境をも堪へて利用してきた。しかし今度の旅には、あい夕方既に暗くなつてから、食物も宿も獲られさうにない、田や畠の見えない地方に入込んだ。或る村へ達しようと、山を越えて捷徑を求めた際、道に迷つたのであつた。
月はなく、松の蔭のため、その邊は眞暗であつた。彼の迷い込んだ處は、全く荒涼たる土地のやうに思はれた。ただ松風の音と鈴蟲の絶え間なく鳴く聲ばかりであつた。彼は躓きながら進むで行つた。どこかの川の堤へ達すれば、それに隨ひて村落へ出られるものと思つてゐた。たうとう一本の川が突然彼の道を遮つたが、それは絶壁の峽間に注ぐ急流であつた。止むを得ず後戻りをして、最も近い絶頂へ登つて、そこから人里の徴候を認めようと決心した。が、そこへ達してみると、’見渡す處、たゞ山岳重疊であつた。
彼が丁度星の下で、その夜を過ごさうと覺悟してゐると、登つてきた山の向うの方の坂の下に、まさしく或る人家から洩れ出る一つの細い黃色の燈光を認めた。彼はその方へ足を進めて、やがて百姓の家らしい一軒の小屋を發見した。先きに見た燈光は、まだその鎖せる雨戸の隙から流れてゐた。彼は急いで行つて、戸を叩いた。
戸を叩いて數囘呼んでから、漸つと内側に何か動く氣配がした。それから、何の御用ですかと尋ねる女の聲がした。その聲は殊の外美しかつた。またその姿は見えぬ女の言葉が、彼を喫驚させた、といふのは、彼女は都の洗練された言葉で話したからである 彼は修業の中の靑年であること、山中で這に迷つたこと、出來るならば、食事と一夜の宿を得たいこと、それから、もしそれが出來ないならば、最寄りの村へ行く道を教へて貰つても有難く思ふといふことを答へた――それに案内者を雇ふ費用は、充分有つてゐることも附加へた。返答として彼女の聲は、更に二三のことを質ね返へした。彼の通つてきた方向から、その家へ達し得たことを、女は非常に驚いた樣子であつた。が、彼の答によつて、明かに疑ひを晴らしたものの如く、内側から叫んで言つた。『すぐ參ります。今晩、村へお出になるのは御困難でせう――道中が御危うございますから』
暫く手間取つてから、雨戸が開かれ、女が提燈を持つて現れた。自身は影にゐえ、旅人の顏を照らすやうに、それを翳した。彼女は無言のまゝ、彼を吟味し、それから簡單に云つた。『お待ち下さい。水を持つて參りますから』彼女は盥を取つてきて、それを戸口の階段の上に載せ、また手拭を薦めた。彼は草鞋を脱ぎ、足を洗つて、旅の塵を拂ひ、して、さつぱりした室へ案内された。その室が家の内部全體を占めて、背後に小さな板圍ひをした場所が、臺所となつてゐるやうであつた。木綿の座布團が出され、また火鉢が彼の前ヘ置かれた。
その時、彼は始めて女主人を觀察する好機會を得た。して、彼は彼女の容貌の美麗と優雅に驚いた。年齡は彼より三歳乃至四歳位多いかも知れないが、まだ若い盛りであつた。たしかに彼女は田舍娘ではなかつた。前と同じく殊の外、美くしい聲で彼に語つて云つた。『今は獨り者でゐますので、こゝへ客をお泊め申す譯には參りませんが、これから先きヘ今夜お歩きになるのは、屹度お危うございます。二三の百姓家も程遠からぬ處にありますが、この暗さではそこへも案内無くては、道がお分かりかねます。ですから、明朝まで御留め申上げます。御粗末では御座いますが、夜具を御用立てますから。それから、御空腹でいらつしやるでせうから、たゞまづい精進料理なんですが、どうか御遠慮なく召しあがつて下さい』
飢ゑでゐた旅人は、この勸めを非常に欣んだ。若い女は小さな火を焚いて、默つたまゝ、二三の料理を調へた――菜の葉を煮たもの、油揚、干瓢、それに一杯の粗飯――それから、その食物の性質について、詫び乍ら、手早く客の前へ出した。が、彼の食事中、女は殆ど物を云はなかつたので、その打解けぬ樣子は彼を困惑させた。彼が試みた二三り質問に對し、彼女は單に點頭いたり、或は僅かに一語の返答をするに止まるので、彼は間もなく談話を控へて了つた。
兎角する内に、彼はこの小さな家は一點の塵を留めぬほど淸潔で、彼の食事に用ひられた器物は、また申分の無いものであつたことを觀察した。室内にある數個の安い道具も小綺麗であつた。押入や膳棚の紙障は、たゞ白紙ではあるが、大きな漢字の立派な揮毫で飾られてゐた。その文字は、かゝる裝飾の法則に隨つて、詩人や畫家の好む題材――春花、秋月、夏雨、山と海、空と星、河水或は秋風――に因んだものであつた。室の一方の側には、一種の低い垣に佛壇が載せられて、その漆塗りの小さな扉が開いてゐる處から、内部の位牌が見えて、野花が捧げられた間には、燈明が輝いてゐた。して、この佛間の上には月の光背を負つカ觀音像の、並々ならぬ價値ある畫がかかつてゐた。
靑年が僅かの食事を濟ましてから、女は云つた。『立派な夜具を差上げる譯に參りません。また紙の蚊帳が一枚しかありません。夜具と蚊帳とも私の使つてゐます品ですが、今夜はいろいろの用事がありまして、私は寢る時間が無いのですから、どうか御休みなすつて下さい。まことに御粗末さまで相濟みませんが』
彼はそこで、彼女は何か不思議な理由があつて、全くの獨り暮らしだので、厚意的口實の下に彼女の唯一の寢具を彼に薦めてゐるのだと悟つた。彼はかゝる過度の欵待に對して眞面目に抗議を申立て、床の上、何處でも熟睡が出來ること、それから蚊も少しも頓着しないことを斷言した。しかし彼女は姉のやうな口調で、是非とも彼女の希望に從つて呉れと言つた。實際彼女には或る仕事があるから、出來る限り早く勝手にさせて戴きたい。だから、彼を紳士だと心得てゐる以上、彼が彼女の希望通りに處置させて呉れるものと信じてゐるといつた。そこには唯だ一つの室より無かつたから、彼はこの言葉に對して、抵抗は出來なかつた。彼女は布團を延べ、木枕を持出だし、紙の蚊帳を吊るし、寢床の横の佛壇の方へは、大きな屏風を擴げ、それから、彼がすぐに寢につくことを望むやうな素振を見せて、お休みを告げた。彼は思ひも寄らね厄介を女にかけることを考へて、躊躇し乍らも、その言葉に應じて寢に就いた。
若い旅人には女主人の睡眠を犧牲にするやうな親切が、いかに氣の毒に思はれて、それを受け容れ難くはあつたが、寢床はなかなかに心地よく感ぜられた。彼は餘程疲勞してゐたから木枕の土に頭を載せるや否や、一切のことを睡夢の裡に忘れてしまつた。
しかし彼が奇異な音によつて目を醒まされた時には、まだ眠つてから間もない程のやうに思はれた。たしかに跫音ではあるが、物靜かに歩く足の音ではなかつた。寧ろ興奮せる急速の跫音と思はれた。だから、強盜の侵入ではないかとも心に浮んだ。自身については損失となるほどのものも持たないから、心配にも及ばなかつた。彼の憂慮は主として彼に欵待を與へた親切なる女に對してであつた。紙の蚊帳の兩側には、四角形の小さい褐色の網が小窓のやうに嵌めてあつたので、それから外を覗いて見た。が、如何なることの起こつてゐるにせよ、高い屛風に塞がれて、見えやうはなかつた。呼んで見ようと思つたが、若し眞に危險の場合ならば、狀況をも究めないで、自身を現はしては、無效に歸し、また思慮を缺くだらうといふ考によつて、この衝動は抑へられた。彼を不安ならしめた物音は、續いて行つて、ますます不思議になつた。彼は萬一の覺悟をして、必要の際は、若い女主人を防禦せんがために、一身を賭けようと決心した。急いで着物を緊めて、窃と蚊帳の下から拔けて出で、屛風の端へ這つて行つて窺つた、彼が見た光景は、全く彼を喫驚させた。
燈明の輝いた佛壇の前で、若い女は華かな服裝をして、獨りで踊つてゐた。彼は彼女の衣裳を白拍子のそれと認めた。尤も從來白拍子が着てゐるのを見たものに比すれば遙かに華麗であつた。衣裳によつて天晴れ引立つた彼女の美は、その淋しい時刻と場處に於て見ると、殆どこの世とも思はれぬほどであつた。が、更に一層驚くべきは彼女の踊りであつ た。霎時彼は凄い疑惑が疼くのを感じた。百姓達の迷信なる狐婆の物語が、彼の念頭に閃いた。が、佛壇の光景、觀音の畫像が、その空想を散らし、その愚かさに對して彼を恥ぢ入らせカ。同時に彼は女が彼に見られるのを欲しないものを注視してゐるのだと氣付いたので、客の義務として、すぐに屛風の背後に歸らねばならぬと悟つた。しかしその光景は彼を魅惑した。彼は愕き乍らもまた空前の妙舞を欣賞せざるを得なかつた。して、眺め入るに從つて、彼女の魅力はますます加つた。不意に彼女は喘ぎ乍ら停まつた。帶を解いた。上衣を脱がうとして振り向いた。すると、彼女の眼が彼の眼と出逢つて、びつくりした。
彼は直ちに女に詫び入つた。彼は突然急速な跫音に目が醒めたので、夜は更けて、淋しい場處だから、女主人のため不安に思つたのだと云つた。それから、踊りを見て驚いたこと、その妙技に心を奪はれたことを告白した。『どうか私の好奇心を宥して下さい』と彼はつゞけていつた。『私にはあなたが何と申すお方か、また何うしてかやうな踊りの名手になられたものか、それが不思議で堪まりませぬから。西京の舞妓は皆見ましたが、まだいかほど有名な女でも、あなたに及ぶものはありません。それで、一たび拜見しましてからは、私の眼を外づす譯に參らなかつたのです』
始め彼女は立腹の樣子に見えたが、彼の言葉の終はらぬ内に、表情は變つてゐた。彼女は微笑を浮べ、彼の前に坐つて云つた。『いえ、怒つてはゐません。たゞ御覽になつたのを遺憾に存じますだけなのです。嘸あのやうに獨りで踊つてゐたのを、氣狂ひとでも御考へなさつたのでせうから。では、その譯を申上げねばなりません』
それから、彼女は身の上話をした。彼は少年の時、女の名を聞いたことを思ひ出した――彼女の藝名は白拍子中最も有名な名であつた。彼女は都門の竃を一身に蒐めてゐた。それがその名聲と美の眞盛りに、一朝何故とも、何處へとも知れず、華やかな世界から消え失せた。彼女はその愛人なる靑年と相携へて、富と幸運から逃れ去つたのであつた。靑年、は貧しかつたけれども、彼等は二人で筒易且つ幸福な田舍の生活を營むだけの資産を有した。彼等は山間に小さな住宅を作り、數年間たゞ互同志を中心に暮らした。男は彼女を拜まんばかりに愛慕してゐた。彼の最大の樂しみの一つは、彼女が踊るのを見ることであつた。毎夜彼は得意の曲を奏し、彼女は彼のために踊るのであつた。が、或る冬の長い寒さに、彼は病に罹つて、彼女のやさしい看護の效もなく、亡くなつた。それから後、女は死んだ人に献げるさまざまの儀式を行ひつゝ、男の名殘を伴侶として獨りで暮らしてきた。日毎に位牌の前へは慣例の供物を供へ、夜毎に昔通り彼を慰めるために踊つた。若い旅人が目擊した踊りは、かやうな次第であつた。彼女は説明をつゞけて、疲れた客の目を醒ましたのは無禮であつたこと、しかし彼が熟睡したと思はれるまでは控へてゐたこと、それから、極めて輕やかに踊るやうにしたことを述べて、全く覺えず知らず彼の安眠を妨げたことの寛恕を求めた。
彼女は一切の話を終つてから、少しの茶を薦め、二人で飮んだ。それから、哀訴せんばかりに、彼に再び寢に就くやう懇願したので、彼も止むなく、幾多衷心からり謝わりを述べ乍ら、また蚊帳の下へ歸つて行つた。
彼は充分長く熟睡した。目を醒ますと、日は既に高かつた。起きてみると、昨夕と同じい質素な食事が、彼に準備してあつた。彼は飢ゑてゐたけれども、女が彼のために自らの食物を節約したかも知れないので、控へ目に食べた。して、彼は出立の用意をした。しかし彼が受けた一切の待遇に對して謝禮の金を拂はうとしたとき、女は何をも受けることを拒んだ。『差し上げましたものは、お金をいたゞくほどのものでなく、また何を致しましたのもたゞ厚意からなのです。どうか、こゝで御困りになつたことは御忘れ下すつて、何と云つで差上げますものもありませんでしたが、たゞ心持だけを御汲み取つていたゞきますれば』と云つた。
彼はそれでも幾らか彼女に取らせようと努力した。しかしたうとう、いかに強ひても彼女を困らすばかりと知つたので、言葉を盡して感謝を陳べ、別かれを告げた。して、心の中では、立去るのを遺憾に思つた。彼女の美しさと上品さは、彼が彼女以外のものには告白しかねる程、彼を惹きつけたからであつた。彼女は彼にこれから先きの道を示し、山を下つて行く彼の姿が沒するまで見守つてゐた。一時間後に、彼は本道に出でた。最早道筋はよくわかつた。すると、急に殘念な思ひが浮んだ。彼は自分の名を女に告げることを忘れたのであつた。瞬間彼は躊躇した。それから、『何、どうでもよい。俺はいつまでも貧乏だから』と獨言をいつた。して、彼は旅をつゞけた。
幾多の歳月が經つた。また幾多の流行もそれにつれて移り變つた。して、畫家も靑年が老いた。しかし、彼は既に名聲を博してゐた。彼の作品の妙に感じて、大名達は競つて彼に厚遇を與へたので、彼は富裕の身となつて、帝都に堂々たる邸宅を有した。諸國から多くの若い畫工が、彼の許に弟子入りをして、萬事奉公を勤め乍ら、彼の教へを受けた。彼の名は全國に知れ渡つてゐた。
さて、一日ある老婦人が尋ねてきて、彼に面談を求めた。弟子達は、彼女の粗服と哀れな姿を見て、たゞの乞食と思ひ、荒々しく彼女の用事を問ふた。が、彼女が『私の參つた譯は、御主人でなくては云へません』と答へたので、狂女と信じて、『主人は今、西京にゐないのだ。またいつ頃歸られるかも、我輩にわからない』といつて欺いた。
が、老婦人は再三再四やつて來た――毎日、毎週やつて來ては、その度毎に『今日は主人は御病氣だよ』とか、『今日は非常に御多忙だから』とか、『今日は澤山の御來客だから、面會は出來ない』とか、何か眞實でないことを答へられた。それでも女は、毎日一定の時刻に、またいつも襤褸包に卷いた一個の束を携へて、來つゞけた。で、遂に弟子達は彼女のことを師匠に告げるのが最も得策と思つて、彼にいつた。『こゝの御門前に乞食と思はれる老女がゐます。御目にかゝりたいと申して、五十回以上も參りましたが、その譯を入ひません。たゞ御師匠にだけ御願ひを申上げたいといつてゐます。どうも氣狂ひと存じますから、思ひ止まらせようとしますが、いつもやつてきます。これから何う致したら、よろしいものかと思ひまして、御耳に入れます』
そこで師匠の畫家は言葉鋭く答へた。『なぜ、誰もそのことを今日まで言つて呉れなかつた?』して、自身で門へ行つて、彼も昔貧しかつたことを想起し乍ら、親切に女に話しかけた。施捨を求めるのかと尋ねた。
が、女は金錢も食物も要らないが、たゞ自身の畫を描いてもらひたいとの希望を述べた。彼はその願を怪しんで、女を家へ入らせた。女は玄關へ入つて、跪いて、携へてきた包の紐の結び目を解き始めた。包を開けたのを見ると、畫工は黃金模樣の刺繡を施せる華麗珍奇な絹の衣裳を認めた。しかし使ひ損じと、年月の經過のために、擦り粍らされ、色は褪めて、當年の全盛を偲ばせる白拍子の衣裳の名殘であつた。
老女が一つ一つ衣裳を擴げ、慄へる指で皺を伸ばさうとする間、ある記憶が畫家の腦裡に動いて、しばらく漠然と浸み渡つたが、不意に燃え上つた。その追想の優しい衝動の裡に、彼は再び淋しい山家を見た――彼が無報酬の欵待を受けた家、彼の臥床を設けられた小さな室、紙の蚊帳、佛壇の前に微かに輝く燈明、深夜そこでたゞ獨り踊つてゐた人の異樣な美しさを見た。そこで、老齡の訪問者の驚いたことには、この諸國諸大名の寵を受けてゐる彼が、彼女の前に低頭していつた。『瞬間でも御顏を忘れてゐた無禮を宥して下さい。しかし最早お互に御目にかゝつてから、四十年を越えました。今はよく思ひ起しました。あなたは甞て御宅へ私を迎へて下さつたのです。あなたは唯二つしかない寢床を私に讓つて下さいました。私はあなたの踊を見、またあなたから一切身の上話を聞かせてもらひました。あなたは白拍子でした。して、私はその御名を忘れは致しませぬ』
彼がさう云ふと、女は喫驚困惑して、始めは答へも出來なかつた。といふのは、年は老い、また非常に艱苦を甞め、且つ記憶力さへ衰へかけてゐたからであつた。が、彼がますます親切に話を向け、昔彼女がいつたことをさまざま思出させ、彼女が佗住居してゐた家の狀況を説いて聞かせると、女もまた思ひ出だし、喜悦の涙を浮べて云つた。『たしかに祈願を見そなはし玉ふ觀昔樣のお導きです。しかし不束な家へ先生が御出下さつた頃は、私も今のやうではありませんでした。先生が御覺え下さつたのは、佛樣の御奇蹟のやうに存じます』
それから、女はあれから後の彼女の簡單な物語をした。幾星霜の後、彼女は貧乏のため、かの小さな家を手離さねばならなかつた。で、年が寄つてから、彼女の名の夙くに忘れられてゐた大都會へ獨り歸つてきた。彼女の家を失つたのは心苦しかつた。しかし年老い、身體弱くなつでは、いとしい亡き人の靈を慰めるために、最早毎夜佛壇の前で踊ることの出來ないのが、更につらかつた。踊りの衣裳姿の畫を描いてもらつて、佛壇の前へ掛けたいのであつた。これがために、觀音に熱心な祈願をしてゐた。して、亡き人のために、平凡な作品でなく、最も優れた畫が望ましいため、この大畫家の名聲を慕つて、尋ねてきたのであつた。で、踊の衣裳を携へてきたから、それを着た姿を描いて貰ひたいと願つた。
彼は親切うな微笑を呈しつゝ一切の話を聽いた。それから『御望みの繪を描くことは、欣んで致します。今日は延期の出來ない、是非仕上げねばならぬことがありますが、明日こゝヘ御出下されば、御望み通り、また私も全力を盡して、描いて上げますよ』と答へた。
しかし女はいつた。『わたしはまだ一番、氣にかゝつてゐることを御話申し上げてゐませんのです。それは、それほど御手數を煩はしまても、御謝料と申しましては、白拍子の衣裳の外、何も差上げる譯に參らないことです。それも昔は高價なもので御座いましたが、その品物と致しましては三文の値段にもなりませぬ。でも、今では白拍子もゐなくなりまして、當節の舞妓はこんな衣裳を着けませんから、珍らしい物と思召になつて、先生が御受け下さるかとも存じましたので』
『そのことは、すこしも御心配に及びません』と、親切なる畫家は叫んだ。『これで昔の御恩を幾分かでも御返へしが出來れば、私は嬉しい次第です。だから明日、御望み通り描いてあげます』
女は三拜して、禮を陳べ、それから、また云つた。『失禮で御座いますが、もう少し申上げたく存じます。それは何卒このやうな今のわたしでなく、昔御覽になつたやうな、わたしの若い頃の姿をお描き下さいますやう』
彼は『私はよく記憶してゐます。あなたは非常に御綺麗でした』といつた。
是等の言葉に對して、女が感謝の辭儀をした時に、皺のよつた容貌は、嬉しさうに輝いた。して、女は叫んだ。『では、いよいよ祈願が叶ふことになりました。かやうに不束なわたしの若い頃を御覺え下さつてゐるからには、どうぞこのまゝでなく、御親切にも、みにくゝは無かつたと、今仰せ下さいました通りの、わたしの昔の姿を御描き下さいませ。どうか、先生、わたしを今一度若くして下さいませ。亡くなりました人の靈に美しく見えますやう、美しくして下さいませ。その人のための祈願で御座います。先生の名畫を拜見致しますれば、あの人もわたしの最早踊れないのを勘忍して呉れませうから』
もう一度、畫家は彼女に安心をさせて、それから云つた。『明日御出下されば、描いて上げますよ。私が見た時のやうな、若い美しい白拍子のあなたを描いてあげます。また、三國一の大富豪から依賴を受けたと同樣に、念を入れて、うまくやつて見せませう。御心配なく、たゞ御出なさい』
そこで、年老いた白拍子は約束の時刻に來た。して、柔かな白絹の上に畫家は彼女の姿を寫した。しかし、その際、畫家の弟子達の眼に映ぜる彼女の姿ではなく、鳥のやうな明るい眸を持つて、竹の如く嫩かで、絹や黃金の衣裳で天人の如く輝いてゐた。若い頃の彼女の記億を寫したものであつた。名工の靈筆の下に、消えてゐた美しさは歸つてきて、褪せてゐた華やかはまた咲き出でた。畫が出來上つて、落欵を施してから、彼はそれを立派に絹で表裝し、杉の軸を附け、象牙の風鎭を備へ、吊るすために絹紐を附け、白木の小箱に收めて、女に渡した。それから彼は金子若干をも贈物として強ひて取らせようと、勸めたけれども、彼女はその補助を受納しなかつた。
『いえ、實際わたしは何も要りませぬ。ただ畫だけがわたしの願で御座いました。これまで畫のために祈願をこめてゐたので御座います。最早大願成就、この上この世の願は持ちませぬ。またかやうに俗なこの世の願を特たずに死にますれば、佛道往生も難くはなからうと存じます。たゞ殘念に思ひますのは、先生に差上げますものとては、この衣裳の外、何も御座いません。先生の深い御親切に對しましては、これから毎日先生の將來の御幸福を祈願致さうと存じます』
画家は笑ひながら、きつぱり斷言して、『いや、これは何でもないことです。白拍子の衣裳だけは、それであなたの御心持が一層御宜しいなら、頂戴致します。昔、私のために、あなたが御不便を忍んで、しかも何うしても謝禮を受け下さらなかつたから、今に私は御恩を着てゐる積りです。その夜の樂しい思出になります。ですが、今は何處に御住居なさつてゐます?この畫の掛つた處を見たいものです』と云つた。
が、女は賤しい住家を御目にかけるも心苦しいと、丁寧に辯解して、所在を明さなかつた。それから再三低頭、禮を述べ、貴重な畫を携へ、嬉し涙を浮べて立去つた。
畫家は一人の弟子を呼んで、『急いで、あの女の人に分らぬやう、後へ追いて行け。して、何處に住んてゐるか、報告してくれ』といつた。そこで、弟子は見えないやうに、女について行つた。
餘程の時間が經つてから。弟子は歸つてきた。して、聞く人に取つて、面白くないことを云はねばならぬやうな風に笑ひ乍ら云つた。『先生、あの女に追いて行きますと、町を出まして、死刑場に近い、磧へ行きました。そこの特種部落のやうな小屋に住んでゐます。汚い、廢つた場所で御座います』
『だが、明日その汚い廢つた場所へ私を案内してくれ。私の存命中は、あの女に食べものや着物に不足させたり、困らせたりはさせないから』と畫家は答へた。
弟子達が皆不思議に思つたので、彼は白拍子の物語をした。それから始めて皆、彼の言葉を奇異と思はなくなつた。
翌朝、日が出てから一時間すると、師匠と弟子は町の界から向うの方で無宿者の集まる磧へと歩いて行つた。
小屋の入口は一枚の雨戸で閉ぢてあつた。師匠は幾たびも叩いて見たが、應答がなかつた。すると、戸は内から締めてなかつたので、輕く開けて、隙間から呼んだ。誰も答へないから、彼は入ることに決心した。同時に異常な鮮明さを以て、彼が疲勞せる靑年修業者として、山中の小屋の前に立つて、戸を叩いた瞬間の感が念頭に返つた。
彼が獨りで靜かに入つてみると、女は一枚の薄い、ぼろぼろの布團にくるまつて、一見すると寢たやうに横つてゐた。粗末な棚の上に、彼は四十年前の佛壇を認めた。中には位牌があつた。して、當時と同じく、今も小さな燈明が、戒名の前で輝いてゐた。月の後光を負つた觀音の幅は無くなつてゐたが、佛壇に面した壁には、彼の贈つた畫が掛けてあつた。して、その下には一言(ひとこと)觀音【註】――この觀音はたゞ一つの祈願を叶へ玉ふだけだから、一囘以上、願を掛けてはならぬ――の御札があつた。荒凉たる家の中には、その外のものは、たゞ衣と托鉢の筇及び鉢だけであつた。
が、師匠はこれらのものを眺めて、躊躇してはゐなかつた。彼は眠つてゐる女を醒まし、欣ばせようと思つて、一囘も三囘も、元氣よく彼女の名を呼んだ。
すると、忽然彼女の死んでゐるのに氣がついた。して、その顏を凝視し乍ら、彼は不思議に思つた。それは案外若く見えた。靑春の妖精とも見ゆる、何となく美しい趣が、そこへ歸つてきてゐた。悲哀の皺は、彼よりも更に偉大なる幻影の師匠の手によつて、奇異にも滑かに和らげられてゐた。